心理的安全性と心配のあいだ、そして純粋に成長するために考えること

責めること

責めることで失うものも得るものもあるけど、
・他人がどうあれ自分自身が責めに対して強くなる(純粋にうまくなかった事象を抽出して、感情とは別にそれを改善する)
・相手を責めても実際に効果がない場合には責めない

アンチフラジャイル的な考えだと、問題があったときに責めた方が改善を真剣に考える可能性もある。
問題だということを認知してれば責める必要ないと思うんだけど、認知してなかったり許されるんだと変な甘えに繋がりそうな場合は事象そのものに対する叱責は必要だと思う。
ただ、それを人格と切り離して、人格は認めているというメッセージを前面に出しつつ、良いところも常に見ながら、それでも良くない行為については言及はするという感じなのかな。
何言っても変わらない人は、逆に責めても仕方ないので、もはやそういう人には腹を立てないのが一番なんだろうなあ…(むずかしい)

どういう課題対応スキームに慣れてるか?というのもあるので、責めに慣れてない/正しい対応ができない人は責めても仕方ない。叱られ慣れしていれば、適切なタイミングで叱れば伸びる。
叱られた時にどう振る舞うかは、教育なのか先天的なのかわからないけど、たぶん教育というか学習なんじゃないかなあ。
あとは現実的な問題として、本当にいっぱいいっぱいの時は感情的にならない事は無理なので、そういう感情の曝露みたいなものを前提として仕事ができるようになった方が汎用性というかストレス耐性は高そう。

心配性について

全面心配性だとつらいのと、心配と思う事と表面への出し方がまた別なので、心配を悲観的に言いすぎるとみんな苦しくなる。
あと、心配すべきレイヤーもあって、細かすぎるレイヤーで心配しすぎると全体最適にならない事もある。
チームに対して自分の心配がどう作用しているかを観察して、足りない/過剰とかの匙加減を調整する気がする。

心配するタイミングは「詳細を詰めるフェーズ」かなあという気がするけど、システム開発の場合は開発中はまだ実行ではないんじゃないかという気がしていて、運用まで行くと実行中になると思うけど、開発中はユーザーの行動とか取り得る異常系に対して悲観的であった方が良いような気はする(個人の感想)。
事業的には、じつはマスタデータ投入とかデータ移行とかして、本当にエンドユーザーが触る直前までが計画ではないか、という感じ。

逆に考えて、自分がチームに与えている影響が分からないとすると、心配の伝え方とかバランスを考えるの超つらそう。私にはできないな。
個人の行動の最適化とか、その意味での心配の配分は重要な課題なんだけど、私個人が経験した範囲では、中長期的なチームの最適化が一番大事だと思ってた。
個人的なバランスは、心配不足でかかった時間を具体的に後付けで算出するのと、過剰心配でかかった時間を後付けで算出しての比較だと思うんだけど、それの計算は自分の中で閉じなくて他の人の振る舞いとか尻拭いとか不安与えた工数を計算しないといけなくて、個人的なバランスひとつ考えるにも私は周囲の事を考えないといけなかった。

仕事ができるようになるために、できる人との差分を取ること

あとは、心配と関係ないけど、仕事の成果がIQ的な身体能力で生み出されているのか、それとも後天的な技術で生み出されているのか、それを分析するのが大事かなと思った。
仮にIQみたいなもので生み出されていて、もし自分が劣っている場合は、その部分は未来永劫埋まらないと思う。ただ、多くの仕事は、システム開発であってもそこに本質は無くて、後天的な技術や知識だと思う。発想の仕方も含めて。(極度に尖った開発は除く)
あと、経験的には、最高の集中時の性能みたいなものは加齢で劇的には変わらない気がするけど、最高に集中できる時間や体力は(修行しなければ)たぶん減る。つまり集中してない時にも成果を出しているはずで、それは技術も結構ある。

仕事のできる人/成果を生み出す人と自分を比べて、
・前提の知識が足りない
・認知が足りない
・知識を受けた発想が足りない
・判断が足りない
・行動(力)が足りない(エネルギーやスタミナが足りない)
・習慣が足りない(理屈でわかっても実践速度が足りない)
どの辺かなというのを知ることかなあ
ミニマムの要素は認知判断操作の3つだと思う。どこに差分があるか。